対話する「未来論」
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高橋宏知×池内恵対談01

イスラームの宗教と脳の機能は交差する。

 

生命知能システム分野 講師 高 橋 宏 知 研究室ホームページ
イスラム政治思想分野 准教授池 内 恵 中東・イスラーム学の風姿花伝
先端研が30周年を迎えるにあたって、専門性の垣根を超えた先にある、未来のことを考えよう──そんな想いを共有する先端研の若手研究者同士が向き合い、分野を横断する自発的な対話が始まった。第1回は、既に共同研究も立ち上がりつつあるという、イスラーム思想・中東地域研究を専門とする池内恵准教授と、リバースエンジニアリングの手法で知能や意識が創発する脳の「機能」に迫る高橋宏知講師の二人。対話は冬晴れの午後、東京大学駒場第二キャンパス・池内研究室にて行われた。
高橋宏知×池内恵対談02
意識はどんな機能を発揮するためにあるのか?
高橋:僕はもともと機械工学出身で、学生時代はマイクロマシンに夢中で、センサーを作っては医学部へ持って行き、ネズミなどに埋め込んで反応を取ったりしていたんです。でもセンサーを作るより、脳の動作原理を調べたほうが面白いのではないかと思って脳の研究を始めました。始めてみたら、脳を前にしたとき、エンジニア視点と、医学の人たちの視点は全然違う。それでこの方法論を深めながら研究してきたのですが、究めていくと、どうも必然的に池内先生に辿り着くと思うんですよね(笑)。実はこの2017年2月、『宗教の創造』という解説記事を、エンジニアのための雑誌(機械設計3月号(日刊工業新聞))に寄稿したばかりなんです。

池内:いや、私も絶対関係あると思っていました(笑)。しかも、宗教を信じるメカニズムを科学的に解明できたら面白いのではないかと、以前にメールでお伺いしたところ、すでに講義で取り上げたことがあるということでしたね。

高橋:はい。僕の講義は、必ず宗教で締めくくりますから(笑)。僕の研究の周辺でいま大きなテーマの1つが意識なんですね。これに対して僕が採っている「リバースエンジニアリング」という手法は、意識の役割を考えます。普通のエンジニアリングでは、何かの機能を実現すべく、図面を描きます。これとは逆に、リバースエンジニアリングでは、すでにできている実物から、どういう機能を実現しようとしたのかを考えます。つまり,意識が何のためにあるのか?  この問題を解くカギの1つは時間です。人は時間をどう認知するのか? 1960年代にアメリカの科学者・医師のベンジャミン・リベットらが行った有名な実験があって、意識の内容とそれがいつ起こったかという時間情報は、脳の中で別々に処理されていることがわかったんです。2つ目のカギは、意識のキャパシティ。われわれの脳には毎秒約1,000万ビットの情報が入ってくるけれども、われわれの意識は毎秒40ビットしか処理できないことも、ちょうど同じころにわかった。意識にはこのように、情報をかい摘まみ、時間順位を付けて要約するという機能があるんですね。

池内:それに関連して、言葉もまた、非常に圧縮された情報ですよね。前世紀以来、テレビなりもっと新しいデジタル・メディアなりが登場しても、結局は途中で言語で媒介することが多く、特に文字による言葉の記録と伝達という手段は生き続ける。私が取り組んでいる一神教という宗教は「最初に言葉がありき」という天地創造の神話を持ち、神の言葉が書板に書き記されて渡されたことを信じるのが出発点となっているように、言語、そして文字が不可欠です。

高橋:言葉は最強の意識化の方法です。でも、なぜ神様がいるのだろう? 僕は、認知的負荷を軽減できるからだと思うんです。つまり、脳は基本的に毎秒1,000万ビットもの情報を並列処理しているけれども、例外的に逐次処理が行われて、わずか40ビットの選ばれた内容と、選ばれた時間が並ぶ。そこに意識が生まれ、順序づけられた情報から因果関係が抽出される。これが意識のメリットですよね。因果関係を認識すると人間は安心する。新たな脅威を恐れなくてもよくなるから、みんな一生懸命勉強したり、知りたがったりする。一方、意識を使って考えるのは疲れます。神様がこうしろと言ったから行動したんだとすることで認知的負荷が低減できるんですね。神様はつまり、意識を持つエージェントが楽して生きるために創られた脳内メカニズムじゃないかと……。
時代の諸問題への解答集としてのコーラン
池内:人間が駆使する論理の根幹は因果律です。しかし因果律をどこまでさかのぼっても、法は出て来ない。因果関係だけでは、人間がどう行動すべきかは結局は決定できないし、結局神を持ち出さないと「〜〜をしなければいけない」という「命令(command)」は出て来ない。このことを、人間社会は繰り返し学んできた。その一つが2000年ほど前のキリスト教ですが、イスラーム教はキリスト教による認識を角度を変えて再確認し、強化した。イスラーム教徒にとって宗教とは、「啓示」という現象を信じることに尽きます。1400年ほど前に、神がアラビア半島のムハンマドという一人の人間を通して、人間に最後の命令の言葉を伝えた、ということを「事実」として信じることがイスラーム教信仰のあらゆる面での出発点です。神が、言葉によって人間世界に命令を下す。これが啓示です。啓示(シャルウ)とはアラビア語では言語学的にも「法(シャリーア)」とほぼ同一です。つまり、啓示とはすなわち法であり、神が、言葉を使って、人間に法を下した、人間の側はそれをただ一方的に受け取って守る、という一連の動作が、イスラーム教への信仰の成り立ちです。
 一神教は、神が天地を創造し、終末の時に破壊するという形で、時間と空間の枠を定めます。そこから、終末には神が人類一人一人の生前の行いに審判を下す、と定めることで、現世における行為へのアカウンタビリティを成り立たせます。そこで初めて正義が可能になるわけです。イスラーム教の場合、人間が神を信じることは、このように言語で明確に定義された法や正義を共有することでもあるので、同じ法と正義の観念を共有した人間同士が、互いを信頼し合える共同体を作り出すことができる。逆に、信者でない人は、最後の審判を信じていないわけだから、アカウンタビリティがない、だから悪いことをするかもしれないと考える。
 そして、宗教が言語で成り立っており法を提示しているという観念とそれを信仰することは、信者が言語を用いて世界を認識していく経路を支配する。今日はせっかく高橋先生が研究室に来てくれたから、ちょっと論理を省略して先を急ぐと、イスラーム教は、「解答集」を先にくれる仕組みになっているんだと思いますね。どういうことかというと、例えば高校で数学の問題集をわれわれは渡されて、解答は渡されずに、数学的な真理を見出していく。後で先生が解答集から答えを見せてくれて、それ以前の人間がすでに見出していた真理と照らし合わせて理解する、そういうやり方でわれわれは数学を学びますよね。これはギリシア哲学の時代の、つまり近代的な自我を課題にするようになる以前の、科学としての哲学の方法論です。それに対して、コーランは神が啓示で真理を下した、いわば「解答集」であって、人間はそこから逆算して世界に存在する問題を認識する。問題を認識すると同時に答えも与えられている。そもそも答えが先にあって、答えにあるように世界に存在する問題読み取るのですから、答えがあるのは当たり前なのですが、しかしとにかくそのように解答と問いを同時に受け取って、世界と人間の生命に対する確信を得る。究極のマニュアルなんですね。

高橋:でも、本当にそこに全部答えがあったらいいですよね。

高橋宏知×池内恵対談03
池内:本当にあるかどうかを論じることなく、あると信じる、そこから出発するのが宗教なんですね。コーランの中に答えがあり、一人一人はそこに照らし合わせて自分の問題を見出す。ちなみにこのやり方だと、外から来るものを何でも受け入れることができるんです。例えば、もし進化論が正しいとするならば「神がそのように人間を創ったからだ、はい終わり」というふうに一気に答えが得られる。同時に、このように解答が先に与えられていて、人間は解答に合わせて問題を発見できるはずだ、という前提からは、自ら解けない問題に取り組んで因果律を辿る作業をあまり必要としないので、科学技術を受け入れることはできても、自ら発展させる営為を阻害するのでは、といった問題は、イスラーム世界の中のモダニスト的な思想史家からは指摘されています。イスラーム教によってすべての真理は開示されると前提する価値規範の中ではタブーとなる問いかけですが、イスラーム世界をめぐる隠された大テーマです。
 「解答集」としての性質は、潜在的には、神が言語を用いて啓示の律法を下す一神教に共通して存在しますが、キリスト教では新約聖書の形式や内容、そして初期キリスト教世界の、ローマ帝国に国教として取り入れられたという政治的発展の経緯から、曖昧になっています。啓示の法による「解答」を受け入れて信じるというユダヤ教以来のヘブライズムの方向性と、人間理性によって因果的推論を積み重ねて問題を解いて真理を発見していくギリシア哲学(ヘレニズム)の方向性が混合していますから、曖昧です。矛盾している、不完全な宗教である、とイスラーム教徒は認識して、そう批判します。
 確かに、コーランに明示的に言語を介して示された啓示の法の真理を最優先してその他すべてを理解させるイスラーム教の論理的な一貫性に比して、キリスト教は論理的に矛盾を含むという議論は成り立ちます。キリスト教では神が一方的に啓示を解答的に下す部分もありながら、それは限定的で、逆に人間に自ら真理を探究させて、解けない、解答が与えられない問題を前にして、悩ませる。しかし、この矛盾からくる思想的葛藤と、啓示と理性の対立する規範をそれぞれ現世における権力・機構として代表する教会権力と世俗権力が物理的に対立する中で、科学的な探究と論証を行うインセンティブが生まれ、摩擦と葛藤の中で闘いながら科学が発展した、という近代史の経路が見えて来ます。しかしイスラーム教の側からは、そのような葛藤を内心に抱え、社会的にも抱えるのは、規範が不完全で非合理的な混乱を招いているだけだ、と受け止められるのです。

高橋:脳には2つの面があって、1つには楽して生きたいからマニュアルを作り出す。他方では意識の働きで、明日へ向けて問題解決する。そうだとすると、要はそのバランスなのでしょうね。
二極化する世界と宗教抗争の未来
池内:イスラーム教は多神教同士が対立し、一神教として出て来たキリスト教とユダヤ教もその内側に分裂や揺れを抱え込み、あるいは他の宗教と摩擦・対立しているのを見て、問題そのものを解決、あるいは消滅させる最終形態として提示された宗教でした。その解決の仕方も、人間が言語を用いて世界を認識することの特性を利用した、コロンブスの卵のような、トリックのようなものです。イスラーム教は、唯一神がこれまでさまざまな人間集団に啓示・法を下して来たけれども、その最後の完全なものをイスラームとして下した、と信じる宗教です。神が人間集団に法を伝える時には必ず預言者というメッセンジャーを介すというのがセム的一神教の共通の要素ですが、これを踏まえて、ムハンマドは最後の預言者である、と信じる。これは宗教的に画期的な「発明」です。「最後」というのは、人間が言葉を使って現実を認識するから生まれるものです。そして人間はその認識に自ら縛られる。「ブービー賞」というものがありますね。これは、「ビリから2番目」ということです。では「ビリの次」という順位はあるでしょうか。つまり「最後」のさらに「プラス1」はあるのか。ありません。というか人間は「最後」という観念を設定したことで、「最後の次」を認識できなくなります。マラソン大会を観戦していて、われわれはビリから2番目のランナーを認識し、そしてビリのランナーを認識して、応援し、拍手を送ります。しかしビリの走者がゴールを通り過ぎた後に、ふらふらっと「ビリの次」の走者がやって来ても、われわれはそれをマラソン・ランナーとして認識しません。もしかして、ビリの次の人も同じように走って来たかもしれないのに。
 イスラーム教徒は「最後の預言者であるムハンマドに託された最後の啓示の言葉」としてコーランを認識することで、「最後の次」の啓示というものが出てくることを、単に認識しません。誰かがどれだけよく考え抜いて、現代のグローバル化した人類社会の新たな環境に適合した新たな啓示の法はこうだ、と新しい宗教を提示しても、コーランの内容と比べてその新しい宗教が優れているか否か、ということをイスラーム教徒の側は誰も論じません。論じる必然性を全く感じないからです。神から人間への、真実の「最後」の伝達であるコーランを預言者ムハンマドがすでに受け取って広めたという「歴史事実」を信じると、イスラーム教の後に新たに「啓示」と証するものを預言者なり救世主なりが現れて示しても、それは「最後+1」という論理的にあり得ないものを主張している、ニセモノ、として自動的に認知されてしまうわけですね。それはイスラーム教徒にとって非常に深い安心感を与える。
 コーランが、神によって、アラビア語で下されたという信念も重要です。異なる言語にコーランを翻訳すれば、それは真理としての神の言葉そのものではなくなる。アラビア語を母語としない信者、あるいは異教徒に信者となる機会を与えるためにも、翻訳はしてもいいのだけれども、翻訳した後の言葉は、それは神の言葉そのものではないよ、と。そうなると、アラビア語のコーランの方は一言一句、神の言葉であり続ける。文言が変わらず、意味が変わらない。そこに人間が解釈を読み込む際にも、解釈の幅や変更可能性は限定される。そのことも、信者に、変わらない真理をつかんでいるという確信を与える。
 このようなイスラーム教への確信は、西洋近代のイスラーム世界への侵入、イスラーム諸国の政府による近代化政策を経ても、結局は揺るがなかった。キリスト教の規範や文明を前提としてそれとの葛藤の中で成立した近代の自由主義的な文明は世界に拡大していったけれども、現在ではその「普遍性」の主張は相対化されつつあり、その拡大の勢いは衰えてきている、という見方もある。これに対してイスラーム教は、「啓示の法による最終的な解答」という別方向の普遍性を主張し続けており、迷うことなくほぼ反射的に何が正しいかを決めることができるという特性によって、それに従う人々を極めて有効に統御しているように見えます。現代世界に頻発する、ジハードの理念を各自が自発的に実践して引き起こしてしまうテロ事件はその氷山の一角に過ぎず、その背後には、イスラーム法という真理に基づいて共同体を作っていけば現代世界の問題は解決するという信念を共有するイスラーム教徒の共通認識とそれに基づいた行動があります。必ずしも政治・経済・軍事、あるいは科学技術の発展で優位でなくとも、イスラーム世界がこれからも持続し、権力を維持・拡大しそうだという見通しが立ちますよね。
 さらに、生まれついてのイスラーム教徒だけでなく、西欧近代がもたらしたテクノロジーやグローバル化のトレンドに乗れない人々を、ひき付けていくという方向にも進むと思うんです。「解答集」であるイスラーム教は、近代科学の成果になんら抵抗を示しません。イスラーム教がこれまでの信者をまとめ、新たな信者を獲得するためのインフラは、近代の科学技術の側から提供されています。衛星放送も、携帯電話のテキスト・メッセージも、YouTubeに映像をアップすることも、真理を広めるために役立つのであれば何の問題もない。そして言語を通じて啓示された法を信じるイスラーム教にとって、デジタル化の進展は極めて好都合な環境変化です。神の啓示の言葉はデジタル空間で流通させるのに最も適切なものです。
 われわれはコンピュータが発達し小型化した末に今、「タブレット」を使っていますよね。タブレットすなわち「書板」ですが、これは神が預言者モーセに十戒を啓示した時に書板に焼き刻んで伝えたという、旧約聖書に記されたセム的一神教の起源の説話に由来しているのでしょう。デジタル化と法の言葉の啓示に基づく宗教との親和性について、偶然ですが、示唆的ですね。

高橋宏知×池内恵対談04
高橋:今のお話を聞いていて疑問に思ったのは、科学技術が世の中の問題をある程度解決して、ある程度満たされた世の中になった時に、人々はどうするのだろうか? 宗教へ回帰して、楽しく生きるために神様を信じるというふうになるのではないかと……。

池内:実際にもうなりかけているんだと思いますね。科学技術の目標は、総体として人類の欲求を満たすことであって、もしそれが成功すれば、世界に数百人程度の大金持ちと、残り何十億の貧しい人々という二極化した世界が生じるかもしれない。その時に、大多数の貧しい人々が反乱を起こすと大金持ちは困りますから、貧しくても別段不自由なく暮らしていけるようにするでしょう。そのときに、宗教は人類社会を統御する不可欠のものとなるでしょう。

高橋:行き着くところは一緒と。まるで進化の収斂みたいです。
宗教を生み出す機械を作るには?
高橋宏知×池内恵対談05
高橋:意識あるエージェントが神を作り、その社会が複雑になると宗教ができるのなら、ネズミにも宗教があるのではないか、と考えると面白いですよね。つまり、ネズミにとっての生き方マニュアルのようなものです。今ひとつ考えているのは、昨今注目されているニューラルネットワークによるディープラーニングのマシンは、何かきっかけを与えてやればすごい速さで計算するけれども、何の刺激もなければ動かない。しかしわれわれの脳は、むしろぼーっとしている時のほうがエネルギーを使っているんですね。そういった活動を生かすような、自律的に活動する機械を作りたいなと。いや、宗教を生み出す機械、作ります(笑)。
 具体的にはまず、脳の中の記憶を司るのは神経細胞のシナプスですが、何兆もあるので1つ1つ読み取っているとはとても思えない。そこで基本の回路として、何らかの情報が常に自律的に走っているのではないかと考えます。神経細胞の軸索は直径1ミクロンぐらいで、髪の毛のおよそ100分の1のサイズです。細いほど配線しやすいのだけれども、それより細いとS/N(シグナル:ノイズ)比が悪化してうまく処理できなくなるという説があります。
 つまり、意識の働きというわれわれの自律活動は、そのようなノイズから生まれたのではないかと。最初はノイズでも,たくさんの神経細胞が同期してパターンを示したり、何らかのダイナミクスを持つと、それがシグナルとなって意識に上る。実際、シャーレの上にピッと神経細胞をまくだけで、自律的に活動し始めるんですよね。そこから原始的な知性とか意識のようなものが生み出されないかというのが、今の私の研究テーマです。ゆくゆくは、宗教のようなものも……。

池内:宗教も、先に機能があるんですよね。まず確信をもたらして幸せにする機構が先にあるのであって、個々の具体的な「あなたはこういう問題を抱えていて、それに対してうちの宗教ではこういう解答があるんだ」という解釈は、実は後付け(笑)。その際に人間が言語を用いる動物であるということが常に関わってくる。「不立文字」といった言語的な思考への懐疑を根幹とする禅にしても、究極の意味で言葉に関わっている。いったん人間が覚えてしまった言語による論理的思考体系を、それがあるがゆえに悩みが認知されるのだからと、脱プログラミングして、無にするための、身体的な技法を含むさまざまな方法を提起する。人間が言語を用いることによって現れるいろんな偽りの問題を解消する。一方、イスラーム教は因果を追求させずに、いきなり神の言葉という基準を有無を言わさず命令として与えて、コーランが解答集であるという前提をまず信じなさい、それさえ信じればその後は自然にあらゆる問題が解けていく、と人間をしつけていくわけですね。宗教の言葉は、もしかしたら頭のプログラムを変えるようなことをやっているのかもしれない。変えられてみると、すべての問いに有意義な答えがあるように見えてくる。
 しかし世界の宗教がこのような言語の側面に特化した一神教の提示する問題=解答に均質化し収斂していっていいのかというと、そこには疑問もあります。日本の神道や修験道、あるいは世界各地のアニミズムのように、言語を極力介さない宗教があります。非言語的な儀式や訓練によって、真理への別種の到達の方法、そもそも異なる種類の真理を想定する。それらと一神教が協議問答をすれば、あるいは友好的に宗教間対話をするにしても、それは言語を介在したものとならざるを得ない。そうなると元来は非言語的な成り立ちの宗教は不利ですし、また対話したり議論したりすることで言語的な要素を取り入れて変質してしまいかねない。私は人類の多様性という意味では言語的宗教と非言語的宗教が併存することが望ましいと思うのですが、人間が言語を使う動物であるならば、言語を軸としたものに均質化していくことは必然かもしれない。しかし言語の深層をさらに潜って行けば、人間は言語を介さないで意識を統御する仕組みを持っているかもしれない。あるいは言語的なものと非言語的なものの関係ですね、そこがより重要になってくる。

高橋:宗教も科学もエンジニアリングもよく生きるための機能のためにあると考えると、それをバランスよくやるのが今後30年の生き方かもしれないですね。
高橋宏知×池内恵対談06
(聞き手・構成:池谷瑠絵 撮影:飯島雄二 公開日:2017/03/17)