先端研設立までの歴史
東京大学先端科学技術研究センター(略称:先端研)の起源は、1918年に設立された東京帝國大学航空研究所である。当初は越中島にあった航空研究所は、関東大震災を契機に1930年9月に東大農学部敷地西端(現在の駒場Uリサーチキャンパス)に移転してきた。戦後、理工学研究所、航空研究所、宇宙航空研究所、工学部附属境界領域研究施設と様々な組織の変遷を経て、先端研が誕生した。
航空研究所、理工学研究所、宇宙航空研究所
1.航空研究所
東京帝国大学内において航空学研究に向けての組織作りが開始されたのは、1916年のことである。この年、航空に関する技術者養成を目的とした航空学科を、東京帝国大学に属する工科大学に設置する計画が決まった。その後1920年に工科大学航空学科が設置された。一方1916年には、航空に関する基礎研究機関設立のために、工科大学内に航空学調査委員会も設置されていた。この機関は、1918年に東京市深川区越中島の埋立地に東京帝国大学附属航空研究所(航空研)として設置された。
折しも、1914年から1918年にわたって続いた第1次世界大戦を経て、航空機の軍事的な重要性が認識されることとなった。5ヵ年計画で航空研究所の施設の拡充が図られることとなった1921年には東京帝国大学附属研究所から、同附置研究所に位置づけが変更された。
施設拡充が進むさなかの1923年9月1日、関東大震災が発生し、研究所にも大きな被害をもたらした。航空研究所が位置していた越中島では地震による被害は微少であったが、その後に起こった火災により、全体の半数を占める木造庁舎を全焼するなど壊滅的な被害を受けた。研究所は再建案が検討された結果、農学部の敷地内西端への移転が決定された。これが、現在先端研が位置する駒場IIキャンパス(駒場リサーチキャンパス)である。1927年12月には一部庁舎が竣工し、移転が開始され、すべての施設の移転が完了するのは1930年9月、震災後7年を経てからであった。
このように震災によって停滞を余儀なくされた航空研究所であったが、その後も国家の大きな期待を背負うことになる。1930年1月には高松宮の巡覧、1931年5月には天皇の行幸、1932年4月には伏見宮の台臨など皇族の相次ぐ訪問にそれが表れている。航空研究所が当時学内で最も近代化された大研究所であったとともに、航空研究に寄せられた国家的期待がいかに高かったかが表れている。なお現在でも天皇の行幸の際の写真や映像フィルムは保管されており、東京大学史料室で視聴可能である。
2.占領政策と理工学研究所
軍拡とともに拡大してきた航空研究所は、当然の帰結として、終戦とともに岐路に立たされる。
1945年に占領軍は、基礎研究から製造、運航に至るすべての航空活動を禁止する、いわゆる航空禁止令を発令した。この結果、1946年1月9日に航空研究所は廃止され、半数の所員が研究所を去り、残り半数が新しく設立された理工学研究所の所員として駒場IIキャンパスに残ることとなった。
1950年には、輻射線化学研究所が理工学研究所に合流し、化学、淡白質分野の研究が行われるようになった。
3.航空研究所の復活と宇宙航空研究所
占領下における航空禁止令は、1956年にようやく解除されることとなる。これを受けて大学内で検討が重ねられ、1958 年4月「航空に関する学理及びその応用研究を行うことを目的とした」航空研究所が設立される。
航空研復活の6年後の1964年には、航空研究所は東京大学に附置された全国国立大学共同利用研究所である宇宙航空研究所(宇航研)として生まれ変わる。
航空研の流れを汲んで発足した宇宙航空研究所であったが、その規模の巨大さゆえに、次なる組織改編が待ち受けていた。結果的には、文部省の直轄研究所である国立大学共同利用機関宇宙科学研究所(宇科研)と、東京大学工学部附属境界領域研究施設(境界研)という2つの組織に分割されることとなった
1981年に宇宙航空研究所は2つに分割され、多数の教職員は淵野辺に宇科研として移り、残りは従前どおり駒場Uキャンパスで研究を続けることとなった。ただし、後者のグループは、これまでどおり独立した部局として存続することを認められなかった。学内でこのグループの処遇を模索し、理学部か工学部が責任を持つことが検討されたが、最終的には工学部附属の研究施設が7年の時限で設置されることとなった。これが工学部附属境界領域研究施設である。
航空研究所全景。
(撮影年不詳、1959〜1961年ごろと思われる)
先端研構想
それでは、先端研の設立はどのように進められたのか。1986年4月から猪瀬工学部長は、工学部内の研究組織委員会で境界研後継組織の検討を始めることとなった。
先端研の部門構成は、企業の研究所が採用する部門構成に倣っており、大学の研究所としては珍しい構成を採っている。これは猪瀬工学部長が大学卒業後、一時民間企業に在籍していた経験によるとされる。それとともに、このような構成にしたのは、大学の研究所に新たな風を吹き入れるために必要と考えたことの表れであるともいえる。
同様に、先端研の代名詞ともいえる4つのモットーも、猪瀬工学部長が中心となって発案されたものとされる。従来の大学の弊害を跳ね返して、大学をリードするような新しい組織にしなくてはいけないという基本方針のもとに、「学際性」、「流動性」、「国際性」、「公開性」という4つのモットーが確立されたのである。
かくして猪瀬工学部長が中心となって描いた構想であったが、その実働部隊がいわゆる先端研「七人の侍」であった。
本郷在籍時よりも格段に活動しやすくなった教授たちは、東大初の寄付研究部門の創設や社会人大学院の設置、そしてさらなる飛躍のための人材集めなど多くの点で、先端研の基礎とその独特の文化を作り出していくことになるのである。
現在、先端研がその研究環境において高い評価を得ているのは、ひとえに「七人の侍」を初めとする初期の教官の努力と成果の賜物であると言えるだろう。
設立時の困難があったからこそ、その後、先端研は組織変革を続けつつ、卓越した研究成果を残し続けることに成功したと言えるだろう。
(以上、『東京大学 先端科学技術研究センター二十年史』より)
先端研設立前の1986年に作成されたパンフレットの表紙に描かれた、先端研のイメージ図。先端研の4大部門から生まれた果実を、社会に還元し、社会からのフィードバックを研究に活かすという、先端研の理念が象徴されている。
先端研の前例にとらわれない姿勢は、言い換えれば歴史に無頓着。
実は、先端研設立の過程を記した資料はほとんど残っていません。
先端研気質のルーツを探るべく、先端研構想が進められた当時の工学部長・堀川清名誉教授に伺ったお話の一部をこちらからご覧いただけます。
▽先端研設立に込められた思い: Rcastnews91号記事より