私と先端研
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私と先端研

OB・OGの皆様から頂いた先端研での思い出やエピソードを紹介いたします。


相羽 康郎 様

先端研在籍時の所属・役職 : 都市開発寄付部門・客員助教授

1991年8月財団法人日本経済研究所からRCASTに1年間所属し東北芸術工科大学開学とともにそちらへ異動した。1年間で一定の成果を出すプレッシャーを感じたが、シンクタンク業から自由に研究せよとなって、テーマをドク論の延長で家族生命表の最新版か悩んだ末、社会的影響を踏まえた業務床規制と都心居住の政策論とした。隣の研究室にP.ボッセルマン(カリフォルニア大学バークレー校)が来室後は、昼食を近くで一緒に食べるようにし、また彼が日本で環境シミュレーション(模型と小型CCDカメラ映像による)を広める行脚にも結構付き合って、その思い出が強い。小出先生のお陰でミニシンポのような海外の方々の発表に交じって最後の発表を行えたので、大変助かりました。


小西 由也 様

先端研在籍時の所属・役職 : 経営戦略企画室・准教授

先端研は様々な経験をさせていただきました。非定型な業務を担当する経営戦略企画室は特異な部署だったと思います。研究プロジェクトの企画からキャンパスの管理に関することまで多岐にわたっての活動は良い思い出です。新しいことを始めるのに機動的に対応できるのでこのようなシステムをうまく活用できるのではと感じています。


お名前非公表

先端研在籍時の所属・役職 : 経営戦略企画室

約10年前の一瞬だけ、私が先端研に関わらせて頂いた頃の思い出をBest10。ホントはもっとありますが。  

10位:スーパーCOEの後しまつ? 着任して右も左も分からない中、この仕事の中で大学や先端研のことがよ〜く分かってきました。イロイロとスゴイと思いました。

9位:学内や文科省への予算や人員などの要求に関わらせて頂いた記憶があります。世の中の仕組を知りました。

8位:カフェスペースの設置。通販で家具を買って自分でコツコツ組み立てたり、入口の風よけのガラス戸は近所の工務店に頼んで、普通の東大では出来ない安さで作ってもらいました。

7位:駒Uのランチ環境を改善しようというお題。軽い気持ちで提案したが、澤先生も「やってみたら」、事務もアレコレ協力してくれて、実現。今でも、あのムードはイイカンジと思っています。

6位:もう変わっていると思いますが、スシ屋とかおでん屋とか、周りのグルメが好きでした。

5位:完成まで見届けられませんでしたが(当時)、樹を守って欲しいという私の願いを叶えてもらった保育所。

4位:少しだけ仕事で、大半は自分の楽しみとして、若手教職員との交流(のみ会)は楽しかったです。ホントに色々な方がいるので、色々な考え方にふれた(フランクに)経験は今でも糧になっています。

3位:教授会&経営戦略会議。優れた人の集まる会議は"違う"と実感。

2位:経営戦略企画室:自分の基本でしたので当然ですが、互いに尊敬できるメンバーで良かった。

1位:澤先生。もはや多くは語れませんが、澤先生が研究所のマネージメントという分野に携わっていたレアな時期に、貴重な薫陶を頂くことができました。6位を除き(芳笑)、2位〜10位、澤先生なしではなかったことです。


加藤 康洋 様

先端研在籍時の所属・役職 : 事務部 プロジェクト執行室

B.B.Q大会


後藤 裕 様

先端研在籍時の所属・役職 : 経営戦略企画室・室長

RCASTの「先端とは」の各先生方の思いや考え方にいつも楽しく読ませていただきました。先端研での先端、SENTANが広辞苑にいつ載るかを楽しみにしています。


糸井 和昭 様

先端研在籍時の所属・役職 : 事務部・事務長

  • 福利厚生として卓球室(卓球台2台)を設置した事
  • 外国人研究者に日本の食文化を知ってもらうためもちつき大会を開催した事
  • 教員と事務職員で先端研を両輪で運営した事が印象に残っている。他の職場では経験しなかった事であった。
  • 執行部の先生方と同じレベルでお話が出来たためストレスもなく3年間の事務長職を無事に終えた事は、上記に記した両輪である事につながっていると思う。

須賀 唯知 様

先端研在籍時の所属・役職 : 微小製造科学分野・教授

平成2年から3年間、助教授として、その後一旦本郷に戻り、平成5年から10年間、教授として、微小製造科学(Nano-meter Manufacturing Science)という分野を担当させていただきました。正確な時期は覚えていない(ほうがいいと思う)のですが、時計台の事務部の倉庫のような地下の一室で、夜中に総務課長ほか事務方の面々と麻雀をした事が思い出されます。そんな自由な時代でした。あと、先端研はなぜ4号館から始まっているのか、皆様はご存知でしょうか? 今は新3号館までできています。実は先端研の最初の新棟構想が議論された時のキャンパス担当は私で、先端研(+生研)の建物号館が記された地図を上からじっと眺めて、30年後を構想し、最初の建物の名称を4号館と提案したのです。その「下心」はあえて解説しませんが、そういう提案も教授会であっさり通ってしまう先端研だったのです。ぜひ、昔にとらわれず全く新しい発想でこれからの30年がますます発展されることをお祈りします。


白木 靖寛 様

先端研在籍時の所属・役職 : フォトニクス材料分野・教授

【「プロセスセンター」顛末記】
30年前、何ら財政的裏付けがないままに発足した先端研に、いきなり神風が吹いた。当時の中曽根内閣が、アメリカからの圧力に応えるべく急遽編成した補正予算がそれである。東大内で、この急に降ってきた予算を受け入れられる研究計画を持っていた部局は少なかったことと、財政的な基盤をほとんど持たずに発足した先端研への同情(?)から、東大に振り向けられた補正予算の一部が先端研へ配分されることとなった。国立大学貧乏論が喧伝されていた当時としては破格の額で、一挙に一流の研究設備を整備しようということで、先端材料およびデバイス研究のための施設を立ち上げることになった。それが、後に「プロセスセンター」と呼ばれるようになった22号館内の研究施設である。 当時、筆者はフォトニクス材料分野の助教授への就任が遅れており、まだ日立に在籍していたが(1987年12月着任)、本分野の伊藤良一教授に依頼され、この研究施設の具体化に協力した。 22号館は、現3号館南棟が建っているところにあった、戦前に建てられた一部2階建ての重厚堅牢な建物であった。ところが中はまるで廃品倉庫であり、戦前からの装置類が写真1に見るように所狭しと放置されており、我々はお化け屋敷と呼んでいた(のちに立花隆客員教授が率いる「先端研探偵団」の格好の調査対象となった)。先端材料・デバイスの研究装置はクリーンルームと呼ばれる極めて清浄な部屋に収容する必要があるため、この22号館の中にプレハブのクリーンルームを設置し、その中に最新鋭の研究装置を収納した。その1例を写真2に示す。このセンターの立ち上げが筆者の最初の仕事であり、その後通算15年にわたり、その維持と管理に携わった。このセンターの運営は先端研の理念を大きく反映し、学内は勿論のこと学外にも広く門戸を開き、IBMの日本基礎研究所を受け入れたり、ヒューレットパッカードやゼロックス等から研究員を受け入れて共同研究を実施した。また、4番目の寄付講座「量子材料分野」の受けもとともなって、国際連携にも寄与した。その結果、500編にのぼる論文をこの分野の世界的一流誌に発表することができた。そして2004年にその使命を終えた。


改修前の22号館内部
写真1:改修前の22号館内部
プロセスセンターにおける実験風景
写真2:プロセスセンターにおける実験風景