東京大学先端科学技術研究センター建物探訪
〜変化し続けるキャンパスの過去と未来〜
東京大学先端科学技術研究センター(以下先端研)のある駒場Uリサーチキャンパスには、歴史的な古い建物と現代的な新しい建物が同居しており、戦前から戦後、現在に至るまでの研究所の変遷をとどめています。日本の工学の発展を語る貴重な歴史遺産から先端科学技術まで見どころがたくさんあります。
代々木上原駅から先端研へ
先端研のキャンパスは、小田急線の代々木上原や東北沢、京王井の頭線駒場東大前、池ノ上駅のどこからも歩いて10分ぐらいの駒場Uリサーチキャンパスにあります。近くには、駒場公園や日本近代文学館、日本民藝館があり、緑の豊かなこぢんまりとしたキャンパスです。
今日は代々木上原駅の西口から先端研へ向かいます。商店街や途中ゆるやかな坂道のある住宅地を抜け、山手通りを渡ると先端研のある駒場Uリサーチキャンパスの正門が見えてきます。
守衛さんのいる正門から正面に見えるのは、生い茂る大きな樹木と時計台のある13号館です(写真@)。「この時計台、なんかアンバランスでは?」と思いつつさらに進んでいくと、レンガ色のクラシックな建物が並んでおり、端正で風格のある趣を感じます。その奥には、クラシックな建物とは対照的な真っ白で四角い、新しい建物がみえます。
今日は先端研前所長で工学系研究科の西村幸夫教授の解説により、先端研の建物を探訪してみましょう。
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▽ 先端研へのアクセス情報
変化し続けるキャンパス
「先端研のある駒場Uリサーチキャンパスにはかつて、駒場農学校(農学部の前身)の大きな農場がありました。農場の西側部分に、越中島にあった東京帝国大学航空研究所(航空研)が関東大震災の後、移転してきました」と西村教授がまず、キャンパスの歴史を話してくれました。航空研は、航空学の基礎研究機関として、1918年に越中島に開設されましたが、1923年の関東大震災により、施設の大半が壊滅してしまったため、駒場で再建されることになったのでした。戦後、航空研は理工学研究所に改組され、その後、宇宙航空研究所、工学部附属境界領域研究施設などこの場所に拠点を構える組織は次々と入れ替わりました。
先端研は、1987年に設立されました。東大の中にある附置研究所の中では、11番目に設立されたいちばん新しい研究所ですが、先端研のルーツは航空研究所にあります。駒場Uリサーチキャンパスは、1995年から大規模な開発が進み、古い建物は取り壊され、新しい建物が次々に建設さ れています。2001年には生産技術研究所(以下生研)が六本木から移転してきました。
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▽ 駒場Uリサーチキャンパス
の歴史
震災からの復興
キャンパスに残るクラッシックな建物(1号館、13号館、14号館、17号館)は、当時の航空研究所のもの。戦災を逃れたため、歴史的な価値の高い建物が残りました。
13号館は国の登録有形文化財に指定されています。13号館は時計台があるのが特徴で、航研本館として使われましたが、現在は先端研の事務室などとして使われています。この13号館を含め、東大の多くの建物は、建築家で東大教授の内田祥三が設計しました。航空研の建物も内田が設計したものとされています。ところが、西村教授は「実際に設計したのは岸田日出刀(写真B)です。岸田は当時東大の講師を務めていました」といいます。
東大が誕生したのは1877年のことで、英国人建築家ジョサイア・コンドルらの設計により本郷地区にレンガ造りのキャンパスが作られました。ところが、1921年の関東大震災で東大の建物の大半は倒壊してしまい、復興計画のリーダーとして建物の設計をまかされたのが内田でした。「内田は構造が専門で、デザインが専門というわけではありませんでした。そこで、内田自身は基本設計を担当し、建物の内部など細部の設計は弟子にまかせました。岸田も弟子のひとりで、当時はまだ20代でした。内田は、中世の修道院のようなネオ・ゴシック建築様式が大学にふさわしいと考えたようでした。一方、岸田は19〜20世紀のドイツやウィーンの近代建築に傾倒しており、ウィーンの建築家オットー・ワグナーの影響を受けていました。岸田は当時のヨーロッパの最新の建築を好んだのですね。安田講堂の外観(写真A)はいわゆる内田ゴシックをベースとしますが、細部には装飾が見られません。また、内部は曲線や三角形の幾何学模様など岸田固有のアールデコを取り入れたデザインが随所に見られます。こうしたギャップがおもしろい建物です」。
*内田祥三(1885-1972)
14代東京帝国大学総長。建築学科の教授のかたわら、営繕課長として震災復興期の東大の建設をリードした。
*ジョサイア・コンドル
(1852-1920)
イギリスのロンドン出身の建築家。お雇い外国人として来日し、新政府関連の建物の設計を手がけた。また工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)の教授をつとめた。
*岸田日出刀(1899-1966)
東京大学名誉教授、建築の造型意匠の権威として知られる。
*オットー・ワグナー
(1841-1918)
オーストリアの建築家、都市計画家。
近代建築を取り入れた岸田日出刀
日本では、明治時代に西欧建築の技術が入ってくると、ヨーロッパの建築をまねし、各所に決まった装飾をほどこした洋式建築がたくさんたてられました。しかし、昭和時代になり日本も建築技術が追いつくと、アールデコや表現主義などのモダニズムの影響を強く受けました。これは、装飾も様式もないシンプルなデザインが特徴です。
「東大の当時の多くの建物は内田が設計したものとなっていますが、先端研の建物以外にも本郷の竜岡門の門衛所の建物や小石川植物園の本館など岸田が設計したものがあります。いずれもゴシックとはまったく異なるモダニズム建築です。当時の最先端の技術やデザインを登用し、幾何学的なデザインが特徴です」。
その後、岸田は東大の教授となり、弟子には有名な建築家の丹下健三や前田國男がいます。
「一連の東大の建物の設計に関わったあとは、しばらくは岸田の作品は見られず、コンペの審査員などを務めていました。1936年(戦争により中止)と1964年の東京オリンピックの建築の中心的な役割も担っていました。「東大の建物の多くを作ったのにも関わらず、名前も残らず、岸田はどんな気持ちだったんでしょうね」と西村教授。
「東大の多くの建物の中でも、航空研究所の13号館は岸田らしさがあふれている建物です。内田は岸田とともに本郷や駒場キャンパスの建物を設計しましたが、キャンパスの中心地区ではないこの航空研の建物は岸田に任せたようです。13号館は自由に設計できたのではないでしょうか。本郷と駒場で学んだことを生かして、好きなデザインにできたのだと思います」。
*丹下健三(1913-2005)
日本の建築家、都市計画家。日本人建築家として最も早く国外でも活躍し、認められた。
*前川國男(1905-1986)
モダニズム建築の旗手として、第二次世界大戦後の日本建築界をリードした。
モダニズムが氾濫する13号館
まずは外観を眺めてみましょう。13号館は地上3階地下1階建てで、屋上に時計台がついています。全体は9本の水平な線でぐるりと囲まれたようになっており、上の層は縦縞状になっています(写真C)。
「13号館は内田ゴシックと対をなす建物で、モダニズムが氾濫しています。外観は全体にシンプルで横線が強調されています。入り口や階段にひさしのような装飾もなく、ゴシック建築のような尖塔アーチ形の曲線もありません。左右がアンバランスなつくりです」。
外壁には赤茶色のスクラッチタイルが貼られています。このタイルはレンガのような質感があって、くしでひっかいたような細い溝のもようがあります(写真D)。
「外壁に貼られているスクラッチタイルは当時の流行りでした。フランクロイド・ライトが設計した帝国ホテルの外壁に使われたスクラッチ煉瓦の影響です。大谷石と質感が似ているといって重宝されました」
*フランクロイド・ライト
(1867-1959)
アメリカの
建築家。ル・コルビュジエ、
ミース・ファン・デル・ロー
エと共に「近代建築の三大巨匠」と呼ばれる。
*スクラッチタイル(写真D)
1階の入り口にはアンバランスなまでに太い石の円柱がたっています(写真E)。四角い扉と窓の上にさらに3つの丸い窓があり、直線と円を組み合わせたデザインです。入り口は、太い円柱とともに幾何学的な印象です。さらに入り口の前、つまり13号館の正面には大きなヒマラヤ杉がそびえ立っています。「なぜ正面にわざわざヒマラヤ杉を植えたのでしょうね。ヨーロッパでは建物の正面を隠すことなど考えられません。そういえば、農学部の建物の正面にもヒマラヤ杉が植えられていますね」と西村教授は不思議そうに話します。
*
航空研究所13号館正面からの写真(1931年航空研究所写真帖より)
当時すでに13号館正面にヒ
マラヤ杉が植えられていたの
がわかる
アンバランスな時計台
さあいよいよ、時計台を見てみましょう。屋上の時計台は上がややつぼまり台形のように見えます。左右の高さが違う独特の形をしています。壁の丸い時計と四角い窓がずれて、重なっています。かつて先端研に所属した伊藤滋名誉教授は、「ゼセッション」という折衷主義のデザイン(モダニズム)を日本流にたいへんうまく翻訳して表現していると時計台を高く評価しています(写真G)。
「時計台の塔が傾斜して台形になっているのは、岸田が日本の古代建築や神社などの直線にひかれたためだと考えています。時計台は神社の鳥居の角度に似ていると思いませんか?伝統的な建築物の近代化を試みたのでしょうか」。
本来、時計塔は権威の象徴なのにも関わらず、13号館の時計塔は左右がアンバランスで、側面にある時計は、正面からわざとずらしています(写真H)。室内のあちらこちらにも窓の大きさや壁の装飾などにアンバランスが見られます。
「こんなつくりにしたのは岸田が権威やフォーマルを嫌ったからでしょう。この建物が本館とも1号館ともいわず、13号館というのも変な感じがしませんか。駒場の敷地を番地のように区切って、その番地の数字を建物の番号にしたようです。これも権威を嫌ったためでしょう。13号館は非常に画期的な建物です。伝統的な権威を否定し、新しいものをつくっていこうという思想にあふれていたのではないかと思うのです」。
画期的な横長の窓
さらに別の歴史的な建物を見てみましょう。航空研は、エンジンや機体などに関するさまざまな実験機器と実験施設を備えていました。1号館や17号館は当時の実験施設です。
1号館は1930年に完成した風洞実験室です。外側は極めてシンプルな四角い建物ですが、中は大きな吹き抜けになっています。そこに巨大なカタツムリかラッパのような木製の風洞がどんと収まっています(写真I)。風洞とは、空気の一様な流れを人工的につくる装置のことをいい、航空機に対する気流の影響を測定するために使われます。この風洞は、日本の工学の歴史の上でも貴重なものです。「風洞はオープンキャンパスのときに公開しているのでぜひ見てくださいね」と西村教授。
現在は生研の施設である17号館は1929年に完成した実験施設です(写真J)。北東の角に大きなガラス窓が横一面に広がっています。「それまでは煉瓦造風のデザインが主流だったので、縦長の窓ばかりでしたが、この17号館のように鉄筋コンクリート造固有のデザインがなされるようになり、横長の窓となったのです。当時はこの窓がとてもモダンに感じられたことでしょう」。
参考リンク
▽ 先端研風洞施設
新しいキャンパス計画が始まる
駒場リサーチキャンパスは、13号館と中庭を挟んで右の西側のエリアは先端研で、四角い3号館と4号館が並んでいます。左側の東側のエリアは生研で、巨大な壁のような大きなビルがたっています。
駒場リサーチキャンパスでは、歴史的な価値のある1、13、14、17号館以外の既存の古い建物を解体し、新たに建物をつくり整備するという新しいキャンパス計画が進められています。1995年から解体工事が始まり、1999年には新4号館(写真K)が、2003年には新3号館が完成しました。さらに2011年には22号館の敷地に3号館南棟が完成しました(写真L)。
新しいキャンパス計画を担い、生研や4号館を設計したのが建築科の教授だった原広司で、3号館を設計したのは、原の弟子である小嶋一浩と小嶋が率いるシーラカンスアンドアソシエイツという設計事務所です。「原の主導でキャンパス計画が実施されましたが、3号館の設計者はプロポーザル方式で選ばれました。かなり厳しい条件だったのですが、偶然にも弟子の小嶋が選ばれました。師匠の建物に囲まれて3号館の設計には力が入ったでしょうね」。
風が吹き抜ける巨大な空間
3号館(写真M)も4号館と同じような印象の外観の四角い建物で、4階部分がへこんでいます。1階部分には打ち放しコンクリートの柱が数本立っており、その柱を抜け、アルミの枠で囲まれたガラス張りの入り口を入ると、まるで宝塚歌劇団の舞台のような大きな階段があります。階段をのぼると、そこには建物を貫くような巨大な吹き抜けがありました。屋根まで続く空間に圧巻されながら上を見上げると、壁や天井には窓が設けてありました。「窓のルーバーを開閉することができ、開けると建物の中に外の風を送り込むことができます。窓の開閉によって空気の流れを変えて温度や湿度を調節できるんですよ」。驚くことに吹き抜けの空間に空調は設けていないとのことでした(写真N)。
エレベーターで4階へ上ると、外からへこんで見えたところはテラスになっていました。ここは、コミュニティーのスペースになっており、テラスに出ると13号館の時計台がよく見えます。
「中2階の広いスペースではたくさんの人が集うことができるし、4階のテラススペースでは研究者どうしが気軽に話しあうことができます。こんなスペースを設けたのは、研究者どうしのコミュニケーションを促したいという設計者の思いでしょう。コミュニケーションがさかんになれば情報交換もたくさんできますからね。吹き抜けの下にある中2階のアトリウムはシンポジウムのような催しや表彰式などによく使われています。階段は記念写真を撮るのにちょうどよいんです」
新たに建設された3号館や4号館も先端研らしい先駆的な建物で、科学技術の発展に貢献する研究がたくさん生まれてくることを感じさせてくれます。先端研の建物には、新たな課題に常に挑戦し続け、科学技術の発展に貢献しようとする思想が受け継がれています。
東京大学先端科学技術研究センター研究実験棟3号館概要
中2階のアトリウム空間は、各研究室の関係をゆるやかにつなぐ立体的な“にわ”でもある。大学の研究施設であるこの建物は人口密度が低く、研究室・実験室以外の場所でのアクティビティがほとんど発生しない。そのような中で、立体的な“にわ”をはさんで上下階にいる研究者の気配をわずかに感じられるようにしている。この施設にとって、共用部分を“アクティビティが出会う場”として捉えたところで現実的ではない。そうした押し付けの空間ではなく自然に気配が共存する空間としての提案である。
小嶋一浩+赤松佳珠子/シーラカンスアンドアソシエイツ